----もう登れない山「屋久島宮之浦岳」----
<屋久島宮之浦岳に登山した1980年前後の若き日々の事>
私立大学を3年の途中で中退し、生まれて初めての信州を旅したのは1978年1月だった。
名古屋から中央本線で信州入りをした。木曽のYHで1泊した。学生の冬休みの終わりごろで客は大勢いた。
親しくなった人と道ずれの旅になり、次の日は諏訪湖畔のYHに泊った。やはり客は大勢いた。連泊者が多かった。
翌日別の人と道ずれの旅となり清里のYHに泊った。ここも連泊者が何人もいて僕も数泊した。みんなで清泉寮やロックという店に行って過ごした。
客の学生たちは大学のために徐々に旅を終えて都会に帰っていった。僕も其処を去ることにした。今度は一人だった。
小海線で小諸に出て、国鉄バスで蓼科山の中腹の蓼科牧場まで行った。標高は1600m、1mを越える積雪は初めてだった。YHに泊。
冬の間はスキーをする以外にすることが無いようなところなので僕もスキーをした。そのYHで近くのYHがヘルパーを求めていることを知った。
電話するとOKとのことで翌日雪に埋もれた道を白樺湖まで歩いて湖畔のYHに入った。客としてではなくヘルパーとして。たしか1月24日だったと記憶する。
働いていたYHは公営だったが、赤字を理由にその6月末に閉館されてしまった。アルバイトとして働くために近くのホテルに移った。
夏休みを利用した学生アルバイト達と一緒のたこ部屋暮らしだったが隣のベッドで男女が一緒に寝ていたりする環境が我慢できなくなり早朝に脱出した。
その年の9月から12月まで大阪八尾から難波まで近鉄で通って飲食店でアルバイトしたが、ある程度金が貯まったので僅かな家財は処分して再び旅に出た。
北海道に行くことに決めていたが、とりあえず最果てまで行こうと決めた。あの時の最果ては根室や稚内といった「都市」ではなく標津線の終点だった。
12月の暮れの夜、大阪駅で最果ての根室標津駅までの片道切符を買って、青森行きの急行「きたぐに」の座席車に乗り込んだ。翌日夕方に雪の青森に着いた。
4時間ほど連絡船に揺られ0時前に函館に着いた。初めての北海道だった。港は重油と腐った魚の匂いがした。胸にジーンと来るものがあった。
到着を知らせる船内放送かドラの音かに急き立てられて、乗客は列車の待つホームに続く冷凍庫の中のような通路を足早に歩いた。
札幌行きの夜行「すずらん」に乗り継ぎ、札幌では釧路行きの急行「狩勝」に乗り継いだ。釧路で大阪を出てから初めて駅の外に出た。
ホームを繋ぐ地下道の先の改札口が駅ビルの地下街に繋がっていて駅が暖かかった。改札の年輩の駅員が旅人達に優しく声を掛けて迎えてくれた。
北海道はいいところだと思った。ぜったい仕事見つけて北海道に住んでやる!と決心した。もとより大阪に帰る切符も旅費も持っていなかった。
その日のうちに切符の終着駅まで行くつもりだったので、根室標津行きに乗り継いだ。車窓から平地なのに白樺の林が見えた。終着駅は既に日が暮れていた。
尾岱沼行きのバスが接続していて乗り込んだ。終点で下車しYHに投宿。予約していなかったので説教を食らい、でも台所の隅で夕食の残り物を頂いた。
黙って無心に空腹を満たしていたら、「おいしいって言いながら食わんね!」ってまた説教を食らった。
翌日は快晴で窓の向こうに海が見えた。その沖に大きな島が見えた。「ぬぬっ??」暫く理解できなかった。私の頭の中の日本地図は国後島を忘れていた。
昨夜説教食らったおばちゃんに「なんか島が見えるんだけど」って言ったら、「クナシリだ〜」と言われた。恥ずかしかった。
「この辺でアルバイトするとこないかなあ?牧場とか・・・」と言ったら、「こんな冬に来てあるもんかね、出直しな。」と言われ、なるほどと思った。
で、他の地で他の仕事を探すしかない。その時は札幌にでも行こうかと思ったかもしれない。
標津線で弟子屈まで引き返し釧網線で網走へ。機関車の引く客車列車だった。斜里を過ぎて見えたオホーツク海の暗い海が印象的だった。
初めて見る冬のオホーツク海だったが感動して眺めるような旅行気分ではなかった。その夜は美幌のYHに泊。もちろん客は僕だけ。勝手口から入れられた。
翌日は特に当てもなく札幌行きの「大雪」に乗り込んだが雪のためなのかなかなか発車しない。車内で待っていたら北見相生行きの案内がホームから聞こえた。
衝動的にそちらに乗り換えた。終点で阿寒湖行きのバスに乗り継いだ。バスはガラガラだったと思う。終点の阿寒湖で降りたのは僕一人だったと思う。
既に暗かった。雪の中をYHに駆け込んだ。客は僕一人だった。予約はしていなかった。夕食にありつけたか記憶が無い。
その夜寝る前に大きな地震が起きた。YHの管理人が慌てながら「窓を開けて!」と叫んだ。僕は大きな地震は初めてで驚いて呆然としていた。
阿寒湖を出て釧路のYHに1泊してから士幌線と国鉄バスで襟裳岬へ。襟裳のYHは長居してる客が5人ほどいた。
その中の誰かから白老のYHでヘルパーを募集しているらしいという情報を聞いたので、電話したら採用してもらえた。其処では5月まで働いた。
次は山小屋で働いてみたくなり、前年泊ったことのある小屋に手紙で申し込んだら採用された。
5月、小樽からフェリーに乗って敦賀に着き、金沢に立寄って白山に登ってから、11月上旬まで信州美ヶ原の山小屋で働いた。
山を下りて旅に出た。ルンペンみたいな旅だった。島の海岸で野宿していたら、「ヒッピーみたいなことしてないでちゃんと働け。」とおっさんに叱られた。
何故か急に働く気になり、旅を終えて松本市内で住み込みでコックとして働いた。年を越して3月まで働いた。
そんなわけで足掛け2年過ごした信州だったが、東京の大学を目指すことにしたので、4月1日に松本を後にした。
東京の住む場所は1週間前の仕事の休日に不動産屋の紹介で決めたおいたので、池袋駅留めにしておいた荷物をタクシーに乗せて4畳半のアパートに辿り着いた。
その日のうちに新聞配達の求人広告見てアルバイトも決めて翌日から働いた。毎日朝刊と夕刊を自転車に積んで約300軒に配った。月給10万円。5ヵ月続けた。
翌年度の大学入学の学力と貯金のめどが立ったので旅と登山に出掛けた。日本百名山なんて知らなかったから意識もしていなかったけど屋久島に行ってみたかった。
<いよいよ屋久島へ>
準備は地図と食料。国土地理院の地図を繋ぎ合わせて大きな島の地図を作った。紙だから濡れたしボロボロだが今もある。
金に余裕は無いから飛行機は無理だが寝台特急と船の旅は時間の掛かる贅沢な旅だった。
わざわざ遠回りする日豊本線経由の西鹿児島行きの寝台特急「富士」を使ったあたり、内田百關謳カにも自慢できるが、食堂車を利用したこと以外は覚えていない。
東京を18時に出て西鹿児島には翌日の18時半頃着く。僕は終点1つ手前の鹿児島駅で降りた。桜島に渡るフェリーは鹿児島駅の方が近かった。歩いて行けた。
桜島でもYHに泊った。翌日屋久島行きのフェリーに乗って宮之浦港で降りた。バスに乗り継いで少し乗って降りた。島の北から南へ縦断する登山道の北端である。
宮之浦岳に登る人でここから入る人は少ないだろう。その夜の白川小屋まで誰にも出会わなかったし、小屋は管理人がいたが宿泊者は僕一人だった。
翌日峠を越えて谷に降りるとトロッコのレールに沿って歩く道に出た。トロッコには出会わなかったし、人にも出会わなかった。縄文杉を見て宮之浦岳頂上に着いた。
雨とガスで視界は全く無かった。シャクナゲの間を下ってテント場に着いた。その夜はテントの外に鹿が現れた。呼んだら「キー」と鳴いて立ち去った。
沖縄の方に台風が来ていることは知っていたが登山前の進路予報から外れて屋久島の方に向きを変えたので翌朝から土砂降りの雨。淀川小屋に避難。
無人だが立派な小屋に2泊し、台風通過を待った。翌々朝、島の南端に向かう道を歩く。大木が倒れていたりして台風一過の荒れた道を歩いた。
川が増水していて渡れず途方に暮れたが、意を決してザックを対岸に放り投げ、全力を振り絞って対岸に跳んだ。火事場では無いが命がけの馬鹿力が出て越えられた。
下山の道も誰にも出会わない。大きな滝の下で休憩した後、暑い中を歩き続け南端の尾之間集落に辿り着いた。国民宿舎の大浴場に入って登山の完了を噛み締めた。
翌日は島を回るバスの終点の栗生集落にある海辺のキャンプ場にテントを張った。広いキャンプ場なのに利用された形跡が無かった。村人が心配そうに見に来た。
次の日は安房のYHに泊。泊り客が僕以外に2人いた。夕食はカレーライスとサラダが出た。食後に登山用コンロで豆の珈琲を振舞ったらYHの主人も感激してくれた。
翌日は安房発鹿児島行きの貨客船に乗って鹿児島に戻った。貨客船だが「客」は僕一人だったし「客室」は6畳間位の和室一つだけだった。フェリーより揺れた。
その夜は鹿児島に泊らず門司港行きの夜行「かいもん」に乗った。登山が無事終わったので、奮発してB寝台に乗った。次の日の東京までは丸きし記憶が無い。
屋久島の宮之浦岳は「日本百名山」の一つで、僕にとってはその9番目の山となっている。東京からは百名山の中で最も遠い山だ。
大学に入ってからはアルバイトに追われ、卒業して就職してからは長い休みは取りにくく、あの時以来行く機会は無かった。体力気力も衰え、もう登れない山だ。
追記
あの頃、登山にカメラを携える習慣が僕には無かった(もとより持っていなかった)ので写真は一切ない。でも記憶はカメラを持たなかった頃の方が鮮明に残っている。
注記
文中のYHの「管理人」は「ペアレント」と、「客」は「ホステラー」と呼ばれていたが、これを読む人が解りやすいように管理人や客と書いた。
後記
翌1981年4月、僕は新宿区神楽坂にある大学に入った。24歳になっていた。そして無事卒業し就職した。大学時代は信州や上越方面への週末登山が中心だった。
年末から正月三箇日は山で過ごした。あの頃、雪のキャンプ場は賑やかだった。大学時代は夏山より雪山の方が親しみがあった。
月給取りの仕事をしながら百名山完登を目指した。北海道の山は遠くて苦労したが定年退職までに達成した。
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