「尾道について」その1(1990年)   戻る

 

 戸籍謄本を見ると僕は1956年65日広島県尾道市で出生とある。お

そらく事実であろうが実感が無い。生まれた時の実感が無いのは当然だが、

それはきっと僕の記憶が尾道から始まらないからであろう。尾道の母の実家

で生まれて間も無く東京に移って幼児期を過ごした後、再び母の実家で僅か

の期間を過ごした。その尾道にいた期間は僕にとってあまり幸せではなかった。



従兄弟の男の子たちに誘われると仕方なく一緒に寺や海岸で遊んだりしていた。

一人の時は2階の物干し台から山陽本線を走る蒸気機関車の音に耳を澄ませていた。

黒くて熱くて力強い蒸気機関車は、僕にとって両親の代わりだったのである。

 

 そのような暗い幼少期を思い出させる尾道であるが、にもかかわらずとて

も好きな町であり、しかも尾道生まれであるということを気に入っているの

は、やはり尾道がとても素敵な町であるからだ。人口は10万に満たないが

町並みはごちゃごちゃしていて非常に活気がある。新幹線の駅は街から離れ

てしまったがそれ故に古い町並みは壊されなかった。造船所がたくさんあっ

て大きな船と聳え立つクレーンは町のシンボル的存在だ。尾道水道を挟んだ

向島との間を渡船がひっきりなしに行き交うし、沖の島々を結ぶフェリーや

水中翼船も頻繁に港を出入りする。市街地のまん中からは街を見下ろす千光

寺山の頂きまで古いロープウェイが行き来し、海に沿って縦長い町のまん中

を貫く鉄道は山裾に添って大きく弧を描いている。坂と寺が多くて観光のキ

ャッチフレーズにもなっている。大林監督のお膝元でもあるので映画にも縁

が深い。また大晦日の除夜の鐘の中継にもしばしば登場する。旅の番組はも

とより文学や歴史の探訪番組にもしばしば登場する。しかし旅の途中の宿泊

地として選ぶ人が多くないのは残念だ。温泉が出ないので仕方ないが、小さ

な旅館の客となって夜の散歩は意外と楽しめる。山の上からの夜景は必見。

港町独特の夜の賑わいも細い路地を歩けば聞こえてくるし、お好み焼きの匂

い、魚の匂い、線香の匂い、船の油の匂いが町全体を覆っている。

 

 山陽本線は地図を広げなくても瀬戸内海に沿って神戸から本州の西の端

下関まで伸びていることぐらい知っているので、神戸から明石にかけての美

しい海の眺めがそのままずーと続くと錯覚する人も多いはずだが、明石辺り

で海が見えなくなるともう当分海を見ることはできない。海の景色をあきら

め、姫路駅で仕入れた駅弁をつつきながらお酒をちびりちびりやって居ると

岡山駅に着く。倉敷駅、金光駅、笠岡駅とのんびりした岡山弁の駅のアナウ

ンスに送られて間も無く福山駅に着く。やがて少々眠くなってきた頃に造船

所のクレーンと海と船と寺の混在する町並みが現れて思わず車窓にくぎ付

けになるのだ。何故か急に旅情が高まって、古ぼけた尾道駅に停車する。駅

前の小さな広場の正面が旅客船のターミナルで、そこまで1分程歩くだけで

港町尾道の演歌の気分だ。まだ日が低くなければ適当な船に乗って、名も知

らない何処かの島まで行って帰ってくるのも良いかもしれない。旅の疲れが

気にならなければ駅のすぐ近くからの急な坂を登って沖の島々を眺めること

も出来る。もしも腹が減っているのなら駅前食堂も悪くは無いがぶらぶら商

店街に入って行きお好み焼きやラーメンを地元の人と肩を並べて食べては

如何かだろう。でもいきなり文学散歩をとお考えならまずは駅の近くの林芙

美子縁の場所でお茶を飲んでからでも遅くはないはず。見るところは有り過

ぎてあせっても仕方ないほどだ。鉄道好きの人ならお寺をバックにした電車

の写真にも色々な面白いアングルが思いつく筈。すぐに宿を探さないといけ

ないならタクシーで山の上の旅館に行ってもらおう。歩いても行けるがぐる

っと遠回りしなければ車では行けないのでそれが町並みの観光にもなるの

だ。

 

 尾道の商店街は映画「さびしんぼう」で登場するが、長くて垢抜けした広

いアーケード通りとそれに通じる細い路地がすばらしい。野暮ったさがなく

て明るい。どのお店も歴史がある。やたらと改装しないので文化財級の店構

えも珍しくない。銭湯が商店街に面しているのも楽しくなる。アーケードの

屋根が無くなるあたりで国宝級のお寺が点在してくる。寺の門を抜けると国

道がありさらに線路を越えるとやっと寺の境内になるなんてのは雑然の妙

が売りの尾道らしさだ。古いキリスト教会が違和感無く存在し、狭い土地に

学校が一生懸命大事にされている。海に向かって歩いて行けば運が良ければ、

そこに渡船の乗り場がある筈、運が悪くても海沿いに数分歩けば辿り着ける。

渡船は何箇所もあるし数分おきにピストン運行しているので待つほどでも

ない。是非地元の人に混じって向島に渡ってみましょう。日常生活に混じる

のは何となく照れてしまうがこんな体験めったに無い筈。海上からの景色に

見とれているだけでなく記念撮影もお忘れなく。用意してないとすぐ対岸に

着いちゃいますよ。折り返す場合も一旦船から下りてちゃんと手際よく運賃

払ってね。払わないで通り過ぎると、今日はお金が無いのかなって同情され

ちゃうよ。







 

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