2度目の中国(1989   戻る


東方航空上海行きの乗客は、数人の日本人と数人の白人を除いて、全て中国人であった。中国の民主化運動のあった年の事で、中国を旅行する日本人はほとんどいなかった。2度目となった上海空港入国ロビーは、大きな土産を抱えた中国人であふれていたが、私は係員に誘導されて列の先頭に導かれて、最初に入国検査を通過した。あの時の後回しにされた中国人達の羨望の眼差しが忘れられない。日本に留学名目で仕事に出かけ裕福になって帰って来た同胞に対して空港の国家公務員が邪険に扱うのも無理はない。

真っ先に中国入りしたが、銀行が開いておらず両替ができない。タクシーを拾い市内の五つ星ホテルへ向かう。タクシーを正面玄関の車寄せで待たせてホテルで両替し、タクシー代を払うとリュックを担いで通りに出た。外国では僕も結構大胆なことをするものだ。雑踏の中をしばらく歩き、乗合バスに乗って港近くのバンドに向かった。其の夜は、和平飯店に泊まった。次の日は、新しい上海駅から成都行の直通特快に乗った。駅前広場でおばさんから粽を2つ買って車内で食べたのがとてもうまかったことと、軟臥車客用の広くきれいな待合室を見た事を覚えている。上海駅待合室空調料金というのを取られたが時間が無く結局見ただけだった。2泊3日の列車の旅はあまり記憶が無いが、同室の中国人と峨媚山登山の話をして、その人に鞄の中の登山靴やアイゼンを見せたら少々驚かれてしまったことぐらいを覚えている。成都はいかにも中国の地方都市といった感じの期待通りの都市だった。駅前通は広い並木道で、そこをしばらく歩いた後、歩くのを諦め、日本と同じようなバス停からバスに乗り、目指すホテルの前で降りた。

難なく其のホテルの客となり、其の夜は近くの川沿いの小さな食堂で、主人の薦めるままマーボー豆腐を食べてらたいそう辛くて、それを主人が面白がっていたのを覚えている。元気の良い、人の良いおじさんだった。次の日は街中の露天市場や寺を巡った。寺の中の食堂で昼飯を食った。寺の前で大道芸の一団が何かやっていた。のんびりとした良い街だった。成都3日めの朝早く成昆線で峨眉に向かった。軟座車に乗ったけど、ごく普通の一般客で半分ぐらいの席が埋まっていた。車両は古かった。峨眉までの数時間は短かった。峨眉の駅前からが峨眉山の麓の町までバスに乗った。バスを降りて中腹行のバスを探したが見つからず、マイクロバスの運転手にこのバスは山に登るかと聞いたら、すぐ乗れと言う。いくらだと聞いたら200元だと言う。私一人の客のまま発車した。つまりマイクロバスを一人でチャーターしたことになったらしい。日本人は金持ちと思われてしまっている。マイクロバスを借り切って終点の集落に降り立った僕は客を待ちわびる商売人達に注目された。大人二人が籠を担いで傍に寄って来た。僕が観光客であると思ったのであろう。私が日本からはるばる「登山のために」来た事を理解してもらうのは容易ではなかった。わらじを売るおばさんが寄って来た。あなたの靴ではすべってだめだと言っているらしい。その付近一帯の積雪はたいしたことはないが、高度が増せばアイスバーンも予想される。しかし私はアイゼンを持ってきていた。アイゼンを見せればおばさんはどんな顔をするだろうと思うと、断れなかった。おばさんはしゃがんで僕の靴にわらじを取り付けてくれた。1元くらいだった。しばらく登ると、まじかにアコンカグアが姿を現したがすぐ雲に隠れてしまった。あっという間の事であった。その後二度と見る事は出来なかった。香港から来た3人組の若者と途中から道ずれとなり同じ宿に泊まった。彼ら同士の会話は中国語になったり英語になったりする。中国語の達者な彼らのおかげでおいしい夕食にありつけた。彼らは台所に入って行き料理に注文をつける。食う事に妥協はない。翌日は彼らと共にロープウエイで中腹まで下り、乗合のマイクロバスで麓まで下りた。そのバスの料金は10元であった。彼らと分かれて一人人力車に乗って峨眉の駅に向かう。ぼられているような気がして値切ったみたら、驚いて悲しそうな顔をした。値切ったことを後悔した。出札口で昆明行の特快の軟臥車の切符を買おうとしたら駅長室に行けと言う。面倒なことになりそうだと思ったら、パスポートの提示を求められながらも丁重な扱いで切符を作ってくれた。切符を手にして後は列車の乗車時間を待つばかりというのんきな時間を駅前で過ごす。次第に出札口前に行列ができ始め、峨眉山で一緒だった3人組がやってきたころには行列はかなり長くなっていた。彼らは硬臥だという。彼らに自分は軟臥を買ったとは言えなかったが後で分かってしまった。あまり良い感じはしなかっただろう。軟臥車は空いていて僕のコンパートメントも僕一人だった。途中の車窓はすばらしく、こっそり写真を撮った。「こっそり」なのはガイドブックにその路線は軍事色が強いというような事が書いてあったから。通路で40歳位の日本人らしい人を見かけたが、その人と昆明の翡翠飯店のフロントで偶然一緒になり、向こうから声をかけてくれた。その人は中国の農業の調査研究をしている日本の学者さんで、その特権のおかげで安い料金になり、さらに割り勘のおかげで4分の1位の出費ですんだ。ホテルの食堂で夕食を取るのも、街中を歩きまわるのも、郊外の湖畔の観光地にバスで出かけたのも、石林に日帰り旅行をしたのもその人と一緒で、結局そのホテルに一緒に3泊し、そのホテルで新年も迎え、気分転換のために街の中心部にあるホテルに引っ越してからも1泊を一緒に過ごした。その学者さんが一足先に北京に帰っていった後、僕は更にもう1泊した。そして一人でぶらぶら街を歩き回った。動物園でゾウやパンダを見た。パンダの檻の周りには誰も居なくてパンダも一人のんびり遊んでいたが、ゾウの柵の周りは人が大勢いてゾウも少しストレスがたまっているように見えた。ただ同然の安い入園料だったが、広い園内はゾウのところ以外に人は少なかった。動物園の北側の広い踏み切りを横切っていたのは単線のナローゲージの鉄道だった。その駅にも行ってみた。1999年の今現在ベトナムとつながっている国際列車の始発駅である。その時は単なるローカル線のたたずまいであった。

翌日朝私も飛行機で昆明を後にした。当時の中国の国内線に一人で乗ったというのは貴重な体験ではなかろうかと思っている。前日にホテル近くの航空券売り場で、切符を手に入れるのは少し大変だった。入り口のドアが開けらるとカウンターに人々は殺到し、小さな窓口に3人ないし4人分の腕が突っ込まれていた。しばらくは様子を眺めていたが、これではいつまでたっても自分の番は回ってこないし下手をすると売り切れてしまうと判断された。そこで、やむなく私も親愛なる中国人民と一緒に切符争奪戦で戦うことに相成った。どうせ売るなら向こうだって高く売れる客に売りたいだろう、私はパスポートを握り締めて腕を小窓に突っ込んだ。果たして、難なく上海行きの切符を手に入れる事が出来た。少し汚い手だったかなと思いつつ、切符を握り締め人垣を潜り抜けて戦場を脱出したのであった。

通路の両側に3人ずつ座席のあるソ連製のジェット機だった。スチュワーデスが紙パック入りのジュースを配って歩いた。そして、軽い食事が配られる。食事の後にはりんごが配られた。一人ずつ丸々一個のりんごをである。私は左側の窓際に座っていたので右隣のおじさんからの手渡しである。おじさんは両手にりんごを持ってしばらく比べていた。おじさんは農業一筋に生きてきたという感じの人であった。共産党員として少し偉くなって上海への研修旅行の機会が晴れてやってきたと言う感じだった。人民服を着ていたし機内では緊張している様子だった。飛行機も始めてかもしれない。おじさんは決心がついて右手のりんごを僕に差し出した。僕はそれが大きい方のりんごであることを横目で見て知っていた。品種改良を重ねたおいしいりんごの丁寧に収穫されるきれいなりんごに親しんでいる日本人の僕にとって、その時のりんごの比較はまったくどうでも良い事だったのであるが、僕はその時受け取ったりんごを眺めながら少し胸が熱くなっていたのだった。おじさんは一生懸命りんごを齧って、僕が食べ始める前に食べ終わっていたのだった。窓の下には中国の大地がゆったりと流れていた。

タラップを降りコンクリートの上を歩き倉庫の中の様なところへ皆ぞろぞろ入って行く。しばらくして、以前日本の大きな駅のホームで見かけたような手荷物運搬用台車列車が後から倉庫に入って来た。各自で自分の鞄を台車の上から取る。そして裏口の様な処から外へ出るとそこは古い空港ビルの外だった。ここが本当に大都会上海の飛行場なのかなと言った感じだったが、まあそれで必要充分なわけである。日本の空港がたかが飛行場に乗り降りするだけなのに大袈裟すぎるのだ。タクシーに乗って上海の中心部に入った。4度めの上海である。上海の街に親しみを覚え、なんだか旅は終わった様にさえ感じられたのだった。

                     10年後の1999年に思い出しながら是を記す
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