高野悦子と「二十歳の原点」について
2018/1/11 up
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高野悦子は1969年6月24日未明(深夜)、京都市内山陰本線で投身自死した。
立命館大学文学部史学科日本史専攻の3年生であった。
栃木県西那須野出身、家族は両親と姉と弟。父親は県庁職員。裕福な家庭に育つ。
県立宇都宮女子高等学校卒業、下宿生活、バスケットボール
大学時代は山科、嵐山、丸田町と下宿を転々とし、部落研やワンゲル部に所属した。
2年生の頃から学園闘争が身近になり、経済的独立を目指してアルバイトを始める。
両親との決別や授業料未納へと自分を追い込むと同時に失恋も経験する。
薬物自殺を試みたり失恋の痛手による不自然な行動があった後に深夜散歩に出て、
帰らぬ人になった。中学時代から日記を書き続けていたが遺書はなかった。
学園闘争の挫折感が原因か失恋が原因か社会に対する失望感が原因か誰も解らない。
純粋な心情を持ち学園紛争に翻弄させられた不運な二十歳の女子大生は共感を呼んだ。
彼女の残した日記は「二十歳の原点」シリーズの3冊に収められて版を重ねている。
1969年6月24日は私が中学1年生で、その日の朝もいつも通り新聞配達していた。
自殺のニュースは地元新聞の片隅に小さく載っただけだから、私は知る由がなかった。
私の高校時代には「二十歳の原点」は既に出版されてベストセラーになっていたが、
私が書店の店頭に平積みされていたその本を買ったのは高校を卒業してからである。
70年代に入っても紛争は続き、東大安田講堂闘争、よど号乗っ取り、浅間山荘事件など
衝撃的な事件が続いていた。その中で命を落とした若者は少なくなかっただろう。
最初本を手に取った時は、私にとって高野悦子はその中の一人に過ぎなかった。
高野悦子の本との出会いとは関係なく私は「2.11、日本原デモ」に参加していた。
共産党の機関誌「赤旗」を「平和書房」の名の書店で購入し、ジャズ喫茶で読んでいた。
大学を3年の途中で退学し大阪に移り住んで難波でアルバイトしていた頃
時々京都に行き「しあんくれーる」という名のジャズ喫茶で休日を過ごした。
私は立命館大学の数学物理学科を志望していたのだ。数学と物理の両方学びたかった。
その店は京都市電が走る河原町通りの立命館大学の近くにあり「二十歳の原点」に
登場するので少し有名になったが立命館大学の移転もあってお店もなくなった。
高野悦子がワンゲル部の活動にのめり込んだのと私が山登りを始めたのは関係ないが
私は19歳から59歳まで掛かって深田久弥選の日本百名山を全て登り終えた。
彼女が生きていれば生涯山歩きを好んでいただろうと信じている。
私は24歳で再び東京で大学生となり、卒業後に埼玉で高校の教師になったが
自分に向いていない教師の道を選んだのは自分の適性を全く考えなかったせいでもあるが
どんな仕事も同じなのだという当時の私の人生哲学に依るものだった。
彼女が生きていれば彼女は栃木県の高校で日本史の教師になっていたと思っている。
同僚の教師と結婚して母になり、今頃は孫を連れて名所旧跡を歩いているだろうと思う。
相変わらずジャズが好きで、東京に出て来た折には書店に寄った後に「いーぐる」などで
珈琲飲みながら買ったばかりの本を大事そうに読みふけっているだろうと想像する。
私は定年退職後、国立国会図書館を利用するようになった。なぜか、閲覧室に
少し老いた彼女が子供のような顔して本に向かっている気がして、見渡してしまうのだ。
2017年春、私は西那須野の彼女の墓にお参りした。
高野悦子は本が数百万部売れた有名人だ。でも墓は目立たないものだった。
今年(2018年)の春、私は京都北山の立命ワンゲル小屋を訪ねてみようと計画している。
彼女が何度も歩いた芹生から雲取山そして花背への道を歩いてみようと思っている。
私は彼女に恋をしている。気付かない時から恋していた。そう、そうなのだ。
2018/1/11
*追記:『2018年3月初旬、京都北山を歩く』
満員の客を乗せて東京駅八重洲口を出発した夜行バスは未明に京都駅北口に着いた。
奈良まで行くバスだが京都で降りた客は3人だけだった。
出町柳駅前行きの市バスはかつて河原町通りを走っていた市電のルートを走った。
6時過ぎに出町柳に着いた。朝早過ぎて店はどこも開いていない。
近くに「ドキュメント72時間」のロケ地になった「鴨川デルタ」があるが寒くて行く気がしない。
駅の近くには有名な「名曲喫茶」があるのだが当然営業前だ。
仕方ないので寒い思いをして駅前で広河原行きのバスをじっと待った。
7時にロッテリアが開いたのでそこに避難。
北山の雲取山(奥多摩にも同名あり)への登山口「花背高原」は広河原行きバス路線の途中にある。
なんとそのバス路線は1日3便しかない。午前中は7時50分発の1本のみなのだ。
バスは満員で発車したが、京都産業大学前と鞍馬寺前でほとんどの人が下車してガラガラに。
数人の客を乗せたバスは細いくねくねした峠道を登り続けた。途中で雪になった。
峠を越えて少し下ると小さな集落が現れる。下車。
寺山峠に向けてトボトボ歩く。雪が舞い寒いのでアノラックを着る。40分ほどで寺山峠。
峠を越えて少し下ると桂川の最上流部の一の谷に出る。
右に行けば雲取山だが前日の雨で川が増水していて渡渉の困難が予想されたので引き返して左へ。
左へ行けば立命ワンゲル小屋への近道になるので天気も悪いので雲取山を断念して左の道を進む。
その道も谷底を川と共に下るので増水のため渡渉に苦労した。
立命小屋への分岐まで来て川の状態から立命小屋を見る目標を捨てることにして芹生へ歩く。
寺山峠から1時間半で芹生の集落に着いた。民家は何軒かあるが集落に人の姿は全く無い。
「二十歳の原点」にも出てくる芹生集落についての記述を思い出しながら分教場なども見学。
芹生(せりょう/せりう)からはアスファルト舗装された林道になるが、
芹生峠を越えて貴船神社奥宮までの1時間15分、人にも車にも出会わなかった。
高野悦子が立命小屋へ通った頃はもう少し北山歩きを楽しむ人が多かったと思われるが
北山杉に覆われた薄暗い寂れた道であった。切り倒された立派な木が無数放置されたままだった。
貴船は賑わっていたし、外人観光客も多かった。鞍馬山を越えて叡電に乗って出町柳に帰還。
(2018/3/23追記)
リンク
「二十歳の原点」についてとても参考になるホームページがあります。
高野悦子「二十歳の原点」案内(リンク承認済)
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