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小豆島YHで一緒だった人たちと島内をサイクリング中に偶然出会う。小さい島だし、だいたい行くところは決まっているので、朝別れたはずの人にばったり会ったりする。二十四の瞳の岬の分校へ行った帰り道、徐々に合流してこの人数に。この写真を撮ってくれた人とは翌日倉敷で偶然再会した。右奥が私。
今は無き、公営小豆島ユースホステルに宿泊。その日は満員だった。小豆島の一番高いところに在り、「水を大切に」って注意を受けたのを覚えている。ミーティングはとても楽しかった。1987年に勤務先の高校の修学旅行で小豆島に行った時、バスは猿山を見学した後、紅葉で有名な寒霞渓へ向かったが、途中で小豆島YH前の広場に立ち寄ってくれた。バスガイドさんが「以前はここにユースホステルがありました。」と説明してくれたっけ。建物は跡形も無く、コンクリートの基礎だけが残っていた。
山口県長門市の青海島YHに宿泊。宿泊者はこの4人と写真を撮ってくれた青年の5人だけだった。朝みんなで大きな漁港を見学し記念撮影の後別れた。後日送ってくれた写真がこれ。当時私はカメラを持っていなかった。左端が私。
当時、各県のYH協会は活発に独自の活動をしていた。右の写真は1976年暮れの岡山県YH協会主催のレクレーション大会。「よ」の上辺りに私が写っている。
1970年代、既に「YH運動」は陰りが見え始め、宿泊者は減ってきていた。そのせいもあってか各YHは様々な「集い」を主催していた。フォークソング全盛期でもあったあの頃。毎月送られてくるYH新聞には、催し物の案内がたくさん載っていた。左の写真は日本原YH主催の正月行事。後方は那岐山。中段右から3人めが私。
この頃私は、大学を中退し、白樺湖YHでヘルパーをしていた。左端が私。朝の気温は氷点下20度近くになった。あの頃は雪が多かったような気がする。スキーやスケートをしない「旅人」も少なくなく、YHは一日中のんびりしていた。毎朝、ここで写真を撮っていた。そして後日写真を送ってくれた。手紙に添えて。手紙は嬉しかった。
大学が春休みになると、宿泊者も増え、オフの間私一人だったヘルパーも4人に増えた。千葉商科大学YH研究会のメンバーが春休み中交代でヘルパーをするためにやってきていた。GパンにエプロンはYHヘルパーの証みたいなもの。スキーだってGパンで滑っていた時代。
1978年春(3月)茅野市営白樺湖YHの食堂ホールでの貴重な写真。中央はペアレントの松尾さん。小柄だが厳しいので有名。ホステラー(YHを利用して旅をする人、つまりYHの宿泊客)に対してはお客ではなく、文字通り父親のように時に厳しく、時にやさしく接した。雪の日、飛び入りのお客を満員ですと言って断ったら、後で私が怒られた。松尾さんは、白樺湖のYH創立当時からJYHに移管されるまでペアレントを続けたが、晩年は白樺湖近くのご自宅で静かに過ごされた。2005年3月お亡くなりになった。白樺湖YHの庭に松尾さんの記念碑を立てるのが私の夢。
5月の連休も賑わった。白樺の新緑が美しかった。茨城県から土浦看護学校の生徒さんがヘルパーに来ていた。左の写真、私は右端。私はこの白樺湖YHで何年も働くつもりだったが、市議会で市営YHの終了が決まり、6月いっぱいで、私も解雇された。
白樺湖YHを去った私は、そのまま白樺湖のホテルでコックの仕事に就いた。料理は好きだったが、一日中厨房の中での仕事に我慢ができず、風来坊の旅に出た。辿り着いたのが北海道の白老YH。近くにアイヌの観光施設やサラブレッドの牧場があるが、冬は旅人の溜まり場であった。毎朝、氷結と戦わなければならない旧式の建物が私は好きだった。
白老YHの食堂ホールにて。右から2人めが私。宿泊者は少なかった。みんなだらだらと何日も連泊し掃除や炊事もするので、誰がヘルパーで誰がホステラーか解らないような生活だった。左から2人めは常連のヘルパーの北大哲学科の学生。大学に通いもしないでYHで「哲学」していたのだろうか。
白老YHの前は幹線国道が通っていて、近くにバスの停留所があった。日に何便か登別温泉と札幌を結ぶ長距離バスが走っていた。YHの利用者は殆どみんな国鉄の周遊券を使っていたのでバスを使う人はめったにいないが、この日は千歳から飛行機で帰るという「お嬢様」をバス停で見送った。
ユースホステルの思い出T