白樺湖ユースホステルの1977年頃と
2018年現在の跡地の状況(2018/7/3)
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1977年1月
1977年5月
1977年、既に利用者が減少していたが週末は賑わっていた。



白樺湖ユースホステルは昭和30年代に運輸省が全国に建設を推進していたユースホステルの一つで
「公営ユースホステル」(注1)に分類される。発祥国のドイツでは文部省の管轄になる「施設」である。
運営は地元の市町村に任されたため、白樺湖ユースホステルは「茅野市営」となった。
「茅野市営白樺湖ユースホステル」は昭和37年(1962年)7月に開設された。
昭和30年代、若者が自由に旅をする時代になり、廉価なユースホステルはその一役を担う。
ユースホステルはブームになりテレビドラマ(注2)にもなった。
30年代から40年代にかけてユースホステルはなかなか予約が取れないほど賑わったが
50年代に入って若者の旅も多様化しユースホステルの利用者は減少傾向になった。
公営ユースホステルは各都道府県にほぼ1つずつ(長野や北海道などには複数)あったが徐々に廃止された。
白樺湖ユースホステルも昭和53年6月末をもって「市営」としての営業は終了した。
有名観光地に立地しているのに、否だからこそ終焉が早かった。その後他の団体に委託されるも
平成19年(2007年)4月から休館となり、その後閉館となり、建物は解体された。
図らずも筆者(私)は市営(茅野市商工観光課管轄)最後のヘルパーとなってしまいました。
所長は松尾福一氏、長年に渡って奥様(幸子氏)と共に「ペアレント」(注3)を務められました。
30年〜40年代、白樺湖は若者の憧れの旅先でありましたから予約が取りにくい程だったと
伝え聞いています。そのため宿泊棟を増築したり、ホールを拡張したりしたようですが
ブームが去ってからは持て余す結果となったようです。
まことに残念ながら、白樺湖ユースホステルの生き証人松尾夫妻は亡くなられました。
僭越ではありますが、不肖私が記録を集め残したいと思います。
建物が解体された後は建物の一部さえ何も残っておらず(私は風呂場のタイルを見つけましたが)
2階建ての大きな建物が立っていたことが想像できないような斜面には草が覆っています。

大門街道から建物のあった方向を望む。(2018)


建物のあった場所。(2018)


夕月ヶ丘からの白樺湖の全景です。(2018)

参考までに1977年当時の建物平面図です。

白樺湖YHに思い出のある方も多いと思います。跡地に記念碑を立てたいと思っています。

(注1)日本ユースホステル協会(JYHと略される)が運営する「直営ユースホステル」や
    民間団体或いは個人が運営する「民営ユースホステル」の3種に分類された。
    直営ユースホステルの第1号は支笏湖ユースホステルで最初の建物が保存されている。
    公営ユースホステルは会員でなくても宿泊でき「国鉄時刻表」にも隔月で掲載されていたので
    利用者が急減するとは思えなかったが館内が画一的であったり公営ゆえの時代遅れ感もあった。
(注2)「太陽の丘」(森繁久彌がYHペアレント役であった。)
(注3)ユースホステルは若者が個人で旅する宿泊場所なので親代わりに面倒を見ることもあり
    ユースホステルの業界用語ですが一般的に使われた言葉です。


追記

私がヘルパーをしていた昭和53年頃、白樺湖の周囲には今の数倍の数のホテルやペンション、バンガローが
あって夏のお盆の頃にはホテルでさえ飛び込みの客には相部屋で我慢してもらうほどの賑わいでした。
今はそれらの内の多く(大部分といってもいい)が廃業・閉館・廃墟化・お化け屋敷化しています。
バスの便数は数分の一に減らされしかもガラガラで走っています。マイカーによるだけではありません。
明らかに旅行者は減ってしまったのです。旅人はどこへ行ってしまったのでしょう。
海外旅行が増えたのも一因でしょうか。高原や湖に憧れる若い人の「少子化」も一因かも知れません。
元々ホテルの建物が多すぎたので閉館されたホテルの建物は解体して自然に戻してもらいたいと思います。
白樺湖は美しいところなのです。美しい自然の景観が戻り、自然にマッチした小さなロッジに変われば
再び白樺湖は信州屈指の観光地になることでしょう。ユースホステルも再び誕生するかも知れません。
白樺湖ユースホステルは市営だったので経営は地味で派手な宣伝も一切しませんでしたから
真っ先に宿泊者は減少していきました。なぜなら既にその頃、相部屋も禁酒も時代にマッチしていなかった
と思います。それはユースホステルの理念そのものが時代遅れになりつつあったということかもしれません。
学生もアルバイトなどして金にゆとりがありました。若い会社員も車が買えるほど給料が良くなっていました。
ユースホステルを利用する若者は私のような倹約旅行を信条とする一部の若者に限られていました。
立地条件に恵まれていた白樺湖ユースホステルも赤字が続き、地元に恩恵をもたらさない市営の施設は
税金の無駄遣いと判断されても仕方ありませんでした。議会で廃止が決まったのです。
6月末で閉館されました。早かったです。JYHがその後を引き継いで、運営を続けてくれました。
色々な工夫をして経営努力されたみたいですが結局、閉館・解体に至ったわけです。
ユースホステルの利用者はあまり金を落としません。路線バスに乗らず自転車や徒歩の人もいます。
しかも利用者は地元市内の人ではなく関西や東京方面からの旅行者ですから赤字では市営の意味がありません。
「市営」が終了したのは当然のことでした。白樺湖ユースホステルが誕生した頃、白樺湖にはまだ
宿泊施設が十分ありませんでした。その後余る程のホテルが建てば市営で宿泊施設を設けて旅行者を
受け入れる行政的な役目もなくなったわけです。JYHが引き継いでも閉館が避けられなかったのは
建物の老朽化が原因です。耐震工事や内部のリニューアルをするほどの将来性は見込めなかったのです。
私がヘルパーをしていたのは建ってまだ十数年の頃でしたが標高1400余mの厳しい自然環境(当時は
雪も多かったので長い積雪期間による痛みも激しかった)の中で数十年の経年劣化を感じていました。
しかし、ユースホステルは今の時代から不要になったのでしょうか。その精神は時代錯誤なのでしょうか。
いいえ違うと思います。
信州の高原を知らずにスイスに行くことや、大沼や大沼駒ヶ岳、羊蹄山の美しさも知らずに千歳空港に降り立って
しまうことや、車窓も見ずにスマホをじっと見ている人たちの旅行が便利さや裕福さの犠牲になっている気がします。
しかし、一人旅の切なさや人生に行き詰って飛び出した旅の重さに耐えるような学校教育や家庭教育を受けていない
今の若者達を責めることはできません。私はユースホステルを利用した旅を生徒達に宣伝するつもりでいましたが
教師として実際の学校現場に就いてみて、それができる現状に無い事を思い知りました。
高校生は夏休みになったらアルバイトして金を貯めて旅行すれば良いのではありませんか。
しかし現実は、家庭の経済的理由以外アルバイトは許されず、部活動も休み無く旅行を理由に休めないのです。
私たちの世代がユースホステルを利用した旅に憧れていたのは今より自由で放任主義的だった学校のお陰です。
中学高校あるいは大学そして親の意識や教育のあり方が変わらぬ限り若い人は真の旅すらできないのです。
私は旅によって多くを学びました。旅によって大人になりました。旅で多くの新しい出会いもありました。
旅の価値が分からない教員が増えました。修学旅行も大義名分は団体行動の習得だったりしますから。
ユースホステルのすばらしさを生徒たちに紹介しようと思っていた夢はいつの間にか私も失ってっていました。

ユースホステルという宿泊施設もユースホステル活動もまだ存在意義を失っていないと思っています。
全国各地で○○の復活が相次ぎます。時代が繰り返すならユースホステルがその価値を真に見直されるのを
願ってやみません。

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